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晩年の後悔は身体にわるい [魂と現実]

__ (13).JPG 「情けは人の為ならず 巡り巡って己が(自分の)為」なんだけれど、前半だけしか知らない人が結構いる。
人は高齢になると段々と体力が落ち、それなりに行動力が落ちていく。山に紅葉を見に行く代わりに、部屋の中で盆栽や写真を眺めることになり、多少なりとも内向的になる。
行動が減っていくのに比例して、過去の思い出が頭のなかで大きくなっていく。そして、できなかったこと、人にしてあげなかったこと、不愉快な言葉を人に多く使っていたことなど、楽しくないことが思い出される。しかしその相手は、もう現世にいなかったり、連絡が取れなかったりする。
仕方がなかったと、言訳を自分にすることになるが、かなり救いようがない感覚だ。かといって急に人に親切にし始めても、周りが受け取ってくれない。後悔と体力の無さが合わさるのは、避けた方がいい。
自分でできることでの親切や優しさは、最後の局面で自分を救っていく。かといって、これは頭で考えた優しさとは違う。自分の幸せのエリアを広げていくときに起きる素直な感情である。感じることから徐々に始めることで、自分の一生の方向性を時間とともにより楽しくできる。


意識優先 [魂と現実]

14nen秋 (600x800).jpg心の研究をしていると社会もその視点から見えてくることが沢山ある。今、物が売れなくなってきている。それを心の側から見てみると・・。物は「こういうふうに生きたい」「親の持っている車よりもっといい車に乗りたい」と言うライン上で動いている。しかし、団塊ジュニアが就職氷河期であったこともあるが、上の世代と価値観が全く違ってきている。上の世代が持っている生きる価値観に興味が無いということは、上の世代が作った物にも関心が無いと言うことになる。

この意識上の断絶が、現実の断絶になる。生きるために、何とか上の世代に合わせているが、本音は冷めている。また冷めていない若者も、なんだかこわい。
段階の世代が、社会的に高度成長と言う背景の恩恵を受けて、その影響もあり元気だったということに気づいていない人が多い。

静かに川のせせらぎや木の葉のざわめきを聞いていれば、自然に疲れが取れてくる。そんな習慣も親から普通に学んでいない。

「風」の声 [魂と現実]

普通に家事や何かをしていてフーッと、軽い、でも特別な風を感じたりすることがないだろうか。今の生活が嫌だと言うわけではなく、でも何か別のことをしている自分が「分かる」感じだ。その「何か」は、今の生活を脅かすもののように思い、閉じ込めたりもする。わざと忙しくしたりする。しかし説明が難しいが、そこに至る道が「分かる」。
その「何か」に向かっていく人は、僅かかもしれない。

登山家が、高い山に登って初めてその感覚が分かったというのではなく、「ああ、そうなんだ、この感じ」と、まるで確認のような。公園の遊び場程度の丘の上にいるときに、自分はエベレストに登りたい、登れるみたいな風だ。
26年新潟.JPG
いろいろあっても、昔に比べれば今は格段に生活のハード面は揃っている、その風の声を聴きやすいはずだ。先進国の産業と、それは深く関わっている気がする。合気道は、基本的に力の技ではなく、相手と自分の力を大きく使う。それには、自分と相手の可能性をより大きく捉えられる意識が必要になる。具体的には、その「何か」を今と切り離して別世界として考えるのではなく、今をもっと充実させることでそこへの「道」がはっきりとしてくる。今と別ではなく、今があるからこそ芽生えた風であることが後でわかってくる。自分が主婦であったときに、そんな風の声を聴いていた。
充実には美意識が必要になる。

気まぐれ賛歌 [魂と現実]

それまでと動きが変わったときって、あとから考えれば、「そのことについて、それなりに考えたうえでの気まぐれ」だったことが多い。何かに飽きて、でも変えるのも面倒な時、ふっと、なんというか風に出くわすみたいなことがある。
 たとえて言うといつもは右の道を通るのに、左の道に行ってみる、すると、今までずっと気づかなかった文房具屋があったりする。この発見で、生活がとても便利になる。それまでは文具は駅までいかなくては!と思い込んでいた。「気まぐれ」ができない人は、不調和が好きだ。ちょっとしたトラブルが好きと言うか、生き生きしたりする。質の高い気まぐれは、なんというか自分の中に興奮が起きる。

飽きる、考える、気まぐれ、これがとても刺激を自分にくれる。これが許される環境をつくっていくことが、生きる才能な気がする。

☆彡ありがとうございます!
今年も小谷野直己先生の干支色紙を飾ることができました。巳年のと交換すると、場の空気が変わる不思議な瞬間を味わえました。ありがたいです!
皆様も良いお年をお過ごしください。来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

とても惹かれる記事を転載します。
 テーマは「しあわせ」
日本新聞協会広告委員会が「しあわせ」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」。1091作品の応募の中から栄えある最優秀賞に輝いたのは、「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」と言っている鬼の子どもを描いた作品。鬼の子供の泣きそうな顔と子どもの文字に、思わず胸がギュッとなってしまう。(ライブドアニュースより転載)

hiruzu.JPG写真はちょっと過ぎてしまいましたが六本木ヒルズのクリスマス。


あなたは何が楽しい? [魂と現実]

2014年が後1か月とちょっとでやってくる。どんな年になるのか。テレビでは巨大地震や病気紹介の番組が多い。ちょっとでも体調が悪いと、どんどん悪い方へイメージが引っ張られる。悪いイメージに流れないためには、意識だけでは無理がある。ではどうすればいい?


とにかく、生活のなかで身体を動かして、どれだけ動けば自分が疲れやすいかを知り、疲れやすさを防ぐために足りないのは何か?食べ過ぎてないか(その逆も)、身体が硬い、リラックスできているかどうか、などを知る必要がある。身体のデータを自分なりに持ち、意識して生活をする。
そして自分の言動で人を無用に疲れさせていないかどうか。また、人は愛情深く関わっている人にこそ、健康や幸せを願う。その人がこの世からいなくなったとしたら、悲しくてどうしようもない、そんな思いを育んでいるかどうか。人は絶対に一人では生きてはいけない。何かをきっかけに落ち込んだ時には、育んできた対象(人)への思いによって、救われていく。そういう意味では愛されている記憶より愛してきた記憶の継続が生死をわける。大事にしたい人と出会えたかどうか。とにかく愛すればだれでも大事に思い始めるという考え方もあるが、私は、その縁は最初から決まっているような気がする。


長年連れ添った夫婦でも「なんか違う」と思ったりするのは、そういうことが関係している。もう「あきらめて」目の前の人が大切だと思うのも一つの選択だろうし、別れていくのも選択だろう。基本は、自分がどこにいれば楽しいか(それなりの努力をしたくなるかということでもある)、そこをごまかすと苦しくなる。今いる場が楽しくなければ、楽しくない自分をきちんと受け入れておく。


落ち込みパターンの認識とともに、心の中に実践的に面白いこと、楽しいことを増やしていくことが、悪いイメージの連鎖から離れていける。生活の中にいつもささやかな発見をし、思い込みによって日常を錆びつかせていかないことが、これから必要な才能である。リラックスシライ_0002.jpg
「リラックス」というテーマの描画

真に頭を良くするために [魂と現実]

雨の都心.JPG「鎮魂」と言うワードは、最近良く聞かれる、それはそれで意味が大きいけれど、大事なのは、魂が静かに高揚すること。前者は陰であり、後者は陽である、月は陰で太陽は陽であり、両方重要になる。高揚のためには、やはり現実で体験の蓄積が必要になる。仕事を通してそれば生まれればいいけれど、現在は難しい。ひたすら仕事でのストレスを我慢し(栄養になりにくい体験)、休日は、単に消費者として、お金を払い、一過性のイベントなどの刺激に向かう。

一見、魂が高揚したかのような錯覚を受ける、でもすぐに、冷めるので、また・・・。お腹は悲鳴を上げているのに、アイスクリームをどんどん食べ続けるような感じ。より安く易く刺激を与えてくれることへの情報が一杯。単なる外側からの刺激と真の魂の高揚の違いが分からない。前者は、何時でも自分を気にしてくれる人を必要とする。生きることが受身になり、その分、楽しくなかったこと、人への批判が増える。

静かに自然の中で、ぼっーと時を過ごせる力、それは実は、自分の奥深いところの声を聞く機会である。魂の高揚には、自分への自分のごまかしに気づくことが欠かせない。(写真:雨と都心)

個人の魅力 [魂と現実]

里の雨2.JPG私たちは、いろんなことに守られていればいるほど、心が弱くなる。守られている項目は沢山ある。守られていれば、ラクではあるが、逆に守る側の設定の範疇を超えることはできない。あくまでも、好意的に受け入れられる範囲での自由である。夫に反発している妻が、でも買う服は、無難な服のようなことである。

守る側にとっていい人である限りは守られる。しかし、慢性的な不安と怒りが起きてくる、でも守りから出て行く気力は生まれない。多くの人が、そういう心理状態な時代である。本当の本音むき出しの関係をもてないまま時間が過ぎていく。人生感は人それぞれだが私はやはり、本音で生きることがいい・・・。その生き方での人との出会いが財産になっていく。守られれば守られるほど、個人そのものではなく、その役割が愛されているだけとも言える。(写真:里の雨)

さ迷うと、命が希薄になる [魂と現実]

鍋茶屋2.JPG幸せの青い鳥を外側に探す時期がある、自分の場合で言えば本音は、多少でもラクをして、でもそれなりに自分勝手に生きていける場がないかなあ・・・。でもそれは、やっぱりむしが良すぎて無いことが分かる。物理的には安定していても自分の感性や感覚と合わなければ、一時もそこに居たくなくなる。

でも、考えても仕方が無いとあきらめれば、心の病になる可能性が高くなる。何時までも外側へとさ迷う人もいて、一見悟った風に見えたりするけれど、生命力が薄くなっている。ではどうするか、もう自分の出来ることから自分を表現していく。分かりやすく言えば、言いたいことを言っていく。その結果、離婚になったりリストラになるかも知れない。そんな体験をして始めて、自己表現と現実との接点が自分なりに掴めてくる。形としての決断が、何らかの内面の異変を自分に起す。決断する前の悩みとは、全然感覚が変化する。でも、そんな自己表現は誰にでも勧められるものでもない。健康のために、穏やかでありつつも、激しいほどの自意識が必要になる。

その世界にはマニュアルが無い。自分で舵取りをする世界。言葉は面白い、「自分で舵取りができる」と言うことは「自分で舵取りをしなければいけない」と同じ意味になる。人にとって苦労は、未来へのビジョンが見えているときにしか、できない。これを我慢するとこんな得があると言う時にしかできない、それが、本来の人にとって自然なことだと思う。言い換えるとビジョンを多くの人が見えれば未来はあり、見えなければ、未来はなくなる。



(写真:新潟で有名な料理屋鍋茶屋)

衝撃波 [魂と現実]

例えば、自分が失業中だったとします。一生懸命がんばってきたのに、結果としてそうなってしまった。親からも誰からも、そこからの救いの声を聴くことができず、そうなった理由が分からず、不景気のせいだと言っても、心が落ち着きません。


こんなとき、電車の中で、「失業なんてありえないよね」と言った声を聴いたとしたら。その立場で無い人には、到底理解できないくらいの衝撃を心身に受けます。どれほど、気丈に振り払おうとしても、その声が、自分についてきます。何故、失業なのかが分からず、その流れで、どうしたら就職できるのかも、イメージがわかない状態です。

原因の一つには、就職に対する自分の甘さがあったこともあります。甘く考えてきた分、就職に対する意識が希薄なこと・・・。希薄であればあるほど、先ほどのような言葉が自分の中で、高まっていきます。就職に限らず、目の前のことに集中したことがない人ほど、他人の一言が衝撃になります。今、起きたことの原因を自分で意識しないかぎり、その先への行動を見失います。

こんな衝撃ほど、きちんと自分で向き合う必要があり、「自分て甘かった?」と聞く勇気がいります。なぜなら衝撃波は、無意識下に入り込んでいきます。幻聴も起き、その苦しさから逃げるために、いろいろな依存に走ることもあります。衝撃ほど、自分の声を聴く、人に話す勇気を持つべき。そこから新たな意識が生まれ、その意識が心身を成長と言う明るい方向に持っていってくれます。

分岐点 [魂と現実]

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自分に出会う(自分の思いに素直になれる段階)ために、いろいろな出来事が用意されています。生きる目的は「形としての成功」ではなく、素直になれる段階に行き着くこと。いいこと、苦しいことを体験し、そこから自分を知ることが出来た人は、共通のエネルギーを持っています。

「今」から多くのことに気づき知ることができます。「今」から学んでくれているので、「今そこに咲いている花」は、とても嬉しくなり、他の存在を呼び寄せてくれます。思いがけないアゲハチョウや小鳥のさえずり。淡い色の虹にもすぐに気が付きます。

憎しみや無感動で世界を眺めれば、それに似合った現実が呼び寄せられてきます。こちらの人の数が多ければ・・・。世界は、分岐点にあります。